池波正太郎
波正太郎の著書の中で当社に触れられている部分を若干書き出してみます。
尚、当社の正式な社号は、昭和26年に藏前神社と改称されるまでは、
〔石清水八幡宮〕でした
(文春文庫から引用)
【鬼平犯科帳】
鬼平犯科帳(九)浅草・鳥越橋
浅草の幕府米蔵の近くに〔八幡さま〕がある。これは元禄のころ、石清水正(しょう)八幡宮を勧請したもので、別当を大護院と号し、護摩堂の本尊・五大明王は、運慶の作だそうな。八幡宮境内の絵馬堂の中で、風穴の仁助と押切の定七が、七日に一度の、「連絡」(つなぎ)を、つけていた。・・・
越後屋をぬけ出し、近くの石清水八幡門前の茶店で、風穴の仁助は押切の定七と会っていた。・・・
ときに、七ツ(午後四時)ごろであったろう。石清水八幡から、瓦町の越後屋まで十町に足らない。いかにも明るい春の夕暮れである。この道は、浅草御門から金竜山・浅草寺へ通ずる往還だけに、夕暮れどきの人通りがはげしい。
【旅路】
旅路〈上〉小豆粥(あずきがゆ)
前方の左側に、幕府の御米蔵の巨大な建物が鳥越橋のあたりまでつづいている。右側はびっしりと商家がたちならび、近藤は、この商家に沿って歩みつつあっ た。井上は、笠の間から五間ほど先を行く近藤の塗笠を睨みながら、石清水八幡宮の門前へさしかかった。この八幡宮は、元禄のはじめに、五代将軍・綱吉が、 石清水正八幡を勧請したもので、別当を大護院と号し、護摩堂の本尊は、運慶作の五大明王だそうな。蔵前の大通りに面して大鳥居があり、その両側は門前町 で、茶店や土産物屋が軒をつらねている。その前を、元旅籠町の方へ通りすぎた井上忠八が、前を行く近藤の塗笠を見失いかけたので、笠に手をかけ、顔をあげ た。その、井上の横顔を、すぐ近くで見た男がいる。これも浪人で、八幡宮門前の茶店の大通りに面した腰掛けにいて、団子を食べていたのだ。その前を井上が 通りかかった。